昭和50年11月21日 朝の御理解



 御理解 第89節 
 「此の方の道は傘一本で開くことができる。」

 此の方の道は傘一本で開く事が出来る。これはあらゆるおかげを戴く事に繋がると思います。例えば教会を開くお店を開く、おかげの道を開くというので。それには傘一本あれば、言うならば手本なしの様な事で道を開く事が出来るぞと。いと簡単に言つて居られます。そこで傘一本というのはどう言う事かと言う事を、私は神様を信じ疑わないそこから生まれて来る安心。は平常心そういう心が開かれたら心配はいらん。
 そういう心が開けたら一切のおかげに繋がる。所謂お徳というおかげも、勿論戴ける。傘一本とはそう言う事だと頂かせて頂いて始めて。この御教えが分かるのです。この方の道は、傘一本で開く事が出来る。実際になら雨傘なら雨傘一本持ってから、例えば布教に出るとか、商売をするというてもです。それから道が開けたり又は、人が助かる様な教会が開かれると言う事ではない。
 傘一本というその傘一本と言う事の真意を解らせて頂く所から、皆さんでもお話を聞き乍ら成る程そうだらうと思うでしょう。教祖が仰る所謂、傘一本で開く事が出来るということは、いと簡単に開く事が出来るというのじゃないのです。その傘一本が大事なんです。そこでなら安心のおかげを頂くというか。何時もどの様な事があっても平常心おれれる様な心の状態を頂く事のためには、どういう信心を言わばさせて頂いたらよいかと。例えば一昨日、昨日の御理解もそこの所を説いた。
 惟は何時もその事を説いてある、その事が説いてある。一昨日のいうならば従うということです。それに奉仕の心が伴う従う、例えば昨日の御理解でいうと、山は富士酒は白雪と言う様な、生き方で願いというものを高度な所に置いて、そして有り難き勿体なき畏れ多きを。愈々分らして貰うて、おかげを頂いて行かねばならん。そのならおかげを頂く具体的な事は、所謂酒は白雪である。酒は有り難き、勿体なき、畏れ多きの三きでしょう。白雪と言う事はです。
 もうそれこそ白妙一色に、一切の醜も美もこの下に覆はれてしまう程しのあり方。その様に豊かに大きくなれ。どう云う事が問題が起こっても。信心というその喜びで不平不足の出らんで済む、いやむしろそれを覆うてしまう、隠してしまう程しの豊かな心、大きな心を頂かせて貰うて。所謂日本一有り難い私を目指せという御理解でした。それをいろんな具体的にその内容が説いてある。
 私はここ二三日、続けて頂きます事ですけど、オカルトと言う事を頂くのです。そしてその後で勘平と頂く、だから私がお芝居が好きですから、お軽と勘平の道行きの所を想像する訳です。けれども初めにおかると頂いたから。おかるというのは英語のだろうと私が思いまして、夕べ菊栄会が終わって皆私の部屋に来て。私の所へ、昨日は秋永先生も来ていて、文男さん高橋さん正義さん、それから戎浦さん東さんあたり全部私の部屋にやって来た。12時位。
 それから二時半までギッチリ信心話を聞いて頂いた訳ですけれども。言わば一昨日、昨日の御理解をとまあいうのでなくて。まあ話の糸口というか。昨日から此処の先生方が皆丁度四時の御祈念前の三〇分間余りを一番ここで閑散な時ですから。その時間に皆んな今朝の御理解を頂いてそれを要約する。その大意を文章にして、そこで持ち寄る。そしてそれを又再検討さして貰う、そういうものを残しておこうじゃないかと。話し合いを致しましたからそれをやっています。
 先生方が改めて、あの御理解を頂けば頂く程今日の御理解の頂きどころは。どこだろうかと焦点を置いて頂くと、又新たな所に気付かせて頂いて、これはやっぱり一遍ぎりじゃいかんなと言う事を改めて言った事でした。それでそして先生が寄って要約したものを又私が要約する訳です。そして一つの文章にしてその話を昨日それこそ私は寝ながら。五人の方達を私の周囲を囲んでから話を聞いて頂いたんです。
 お話をしながら私も大変おかげを頂くし、又先生の話が始まったち思いよったばって、私が段々熱を入れて話すもんですから。もう本当に大変な事を言わば分かり易く、言わば要約してからのお話しですからね。しかも一昨日と昨日の二日分をです。たったそれだけの時間にお話しをするのですから。と言う様な事でした。でその場で私はこの二三日毎日続けて頂くのに、そのオカルトと言う事を頂くし。
 その後に勘平と頂くお軽と勘平。あの忠臣蔵でいう、あのお軽と勘平の道行きの場と言う事を色々と思うてみて、どういう事じゃろうかと申しましたら。文男先生が申しますのに、オカルトというのは、超能力者と言う事だそうですね。例えば祈ってスプーンを曲げるとか、まあ場会いには千里眼的な事が分るとかそれをオカルトというのだそうです。そこで私は今日の御理解を頂いて思うんです。言うならば私も矢張りオカルトだと思うんです。皆さんが分らない事を頂くもんですから。
 けれども唯私のオカルトと言うのは、スプンを曲げたり、千里眼的な事やら失せ物がどこにあるといった様な不可思議極まる言わば、意味ではなくてです。教祖金光大神が天地金乃神様よりお受けなられた御教え、それが非常にいうならば簡単な様で難かしい。この教えによって徳を受ける、この教えに依っておかげを頂くという、例えば、どういう様な道でも開けると言う様な事をです、唯この方の道は傘一本で開く事が出来るという様に簡単に説いてあるのですから、これは超能力をもってしなければ分らんのです。
 それを例えば此処では、私が傘というお知らせを頂いて、ああ成る程傘一本頂けたら成る程一本を何時も持ってさえおればです、どんなに空模様が悪くなって来ても心は騒がないでしよう。よしまた降って来ても、濡れんで済むでしよう。そういう意味で成る程傘一本というお言葉を使いなさったと言う事をです。私の言うなれば超能力をもって、皆さんに聞いて言うならばです。人間が真実幸せになるあの世にも持って行けるお徳、この世にも残しておけると言われる程しの。お徳を頂く事の為のです。
 言うならば絶対間違いのない道を皆さんに聞いて頂く事が出来ると言う事はです、矢張り私はオカルトだと思うです。私の想像とか私が本を読んで得た知識とかと言うものを、聞いて貰うのじゃないでしょうが。神様から何時例えば、私のオカルトというのは超能力というのはです、千里眼的なものである。スプンを曲げるとか、これが何の役に立ちますか。そんな能力が何の役に立つか、人間の幸せに継ながらないですおおよそ。
 けれども私が皆さんに聞いて貰い伝えておる事はです。神も助かり氏子も立ち行く程しの教えであり、言葉である。然も的確に例ば昨日の山は富士、酒は白雪という様な御理解なら御理解からです。本当に私共が此処に焦点を置くなら成程、心も豊かになるだろう心も大きくなれるだらう。そうすりゃおかげも広く大きく頂くと言う事が、確信される様な教えを皆さんに聞いて頂く事がです。あぁ成程オカルトと言われるのはそう言う事だと。私もだから超能力者だと言うなれば思はして貰ます。
 昨日一昨日でしたか、久留米の今村さん和子さんの方がお知らせに頂い取る物が、われ合楽示現の使者たらん。と言う事を頂いとります。我れ合楽示現の使者たらんと。使者とは使いの者今合楽示現活動と言う事が盛んに言われる。それに参画させて頂きたい。そしてその内容を本当に解らせて頂いてです。それを多くの人にも伝えて行く使命があるんだと自覚せよと言う事なんです。だから私自身もです、私どうしてそういう能力を神様がお授け下さったかと言うと。
 例えばここにご縁があってお引き寄せを頂く皆の人に。真実人間の幸せ、幸福あの世にも持って行かれ。この世にも残して置ける程しの神徳をです。受けてくれる人達が出来る事の為の私は使者だと私は自負しとります。ですから例えば、どうしてオカルトと頂いた次に勘平と言う事があるだろうかと今朝から考えてたんです。所謂お軽と勘平というのは、好きに好かれて言うならば道行きの所の場なんです。ははぁこれはお軽と言うなら私とです皆さんがです。
 好きつ好かれつと言う様にお互いが憧念心を燃やすとか、慕わしうてと慕わしうしてというその心を燃やして、私と一緒に道行くのじゃと言う事なんです。考えてみるとお軽勘平の道行の場というのは、これは必ずバックは富士山です。皆さんもお芝居を御覧になった事があるでしよう。忠臣蔵の中に所作ものが一つ入ります。それをお軽勘平の道行なんです、普通は劇が仕組んであります。けれども」お軽勘平の崎坂伴内が出て参りますチヤリ役の、そしてその道行の邪魔を致します。
 言うなら横恋慕をする訳ですお軽に、その舞台というのは必ず富士山です。うしろは裏がバックが、それから色々考えさして頂いてです、いうなら昨日から頂く様に山は富士といふ様に、私共のそのバックがです。富士山なんです。然も崎坂伴内いろんな障害はあるけれどもです、それを乗り越えての道行きなんです。もう嬉しうして、嬉しうして心浮き浮きで、言うなれば道行が出来る様なおかげを頂く為には。私とあなた方が惚れ合はにゃ、いけんと言う事なんです。
 言うならば私が付いて行く所に、皆が付いて来なければいけないと言う事なんです。これはオカルトでなからなけらにゃ解らんです。そんな事は。昨日以前私の方がいとこ会というのをしておりました。私の方が本家ですから私共の方へ皆が集まりましてやっとりましたけれど。もうここ何十年間それを致しません。それでこの頃叔父の法事のとき皆が集まった時に、たまたまその話が出ましてから、それならいっちょあんたどんが思い立った、いとこにあんたが世話をなら思い立ってくれんのと言っておりました。
 それで昨日電話が掛かって参りまして、今月の三十一日か三十日かにするようになっているのです。それが何と私の方と椛目の田中と池尻の方を入れんでも丁度49名おるそうです。それで私の方とこう入れますと65名位なるのです。今度の事はいとこというだけではなくて、いとこの子がもう嫁子持っとるという連中も入れます。その変りほう60何名と云う訳なんです。だから私はその事を早速神様にお届けさして頂いたんです。それから文男先生がおかげ頂いとります。
 私のよそいきの下着がありますそれを頂くんです、下着の裏のあれは絵模様ですね。裏に絵模様が、富士山にですね、富士山の講というものがあるですね、富士山の講というのがあってから、行者風の人達が金剛杖をついて、富士山に登っている絵がついているのです。その場面を頂くのです、はあ今度のいとこ会というのは私が富士山頂を目指す、それに六十何人の者が私方の大坪の一家の者が是に付いて来る。
 以前はですね私共が子供の時分には、六人の兄弟が父の兄弟がおりますのが全部金光様の御信心を頂いとったんです、もう全部頂いとったんです。それがいとこ達の代になって、最近はもう全然あのまあ家には小さいお社をお祭りしとる所もある位です。もう皆おかげを頂いとったのが、そうしてもうお道の信心に疎遠になってしまっておる、そしてここが、段々おかげを頂くもんですから。表を通っても入り難いけん寄らんごたる風な感じになってしまっておる訳なんです。
 それでこの従兄弟会と言う事を発願されて、それが行われると言う事はある意味において、矢張り示現活動だと思う。ならとにかく大坪一家の者が、私に付いて来いと富士山頂を目指すそういう神様の働きあっての事だと私は思うんです。ですから皆さんとても同じ事です。私が富士山頂を目指して登るなら、皆さんもそれに連れのうて来ねばいかんです。然も嬉しう楽しう、それこそ道行の様な気持ちで付いて来なければいけないと言う事を分って頂きたい。
 なら此処では、今申します様にオカルトと言う事は超能力者と言う事ですけども、スプーンを祈りで曲げるとか。千里眼的な事が分かると言う事が、これが人間の幸せにどれだけ貢献いたしますか、けどなら私が頂いているオカルトというならばです、人間が真実本当に幸せになれる。幸福になれる、然も私の頭で考えるのではなくて、オカルトだからこそいえる出来るという話を皆さんに聞いて頂いているのですから、皆さん本気で私と共に道行をする気にならなければです。
 なら如何にオカルト的な先生を頂いておられてもです、どんなに例えば生神様の様な先生を頂いておられましてもです、大した事はありませんですよ。私と行動を共にする私の信心に付いて行く。それにはね和子さんが頂いとります様に、それこそ我れ合楽示現の使者たらんという様な、自負というかそういう自覚に立って、愈々私が皆さんに伝える所の教えをです。唯あぁ今日の御理解は有り難かっただけでなくて、昨日なら先生方が、三時半から四時までここでお話をさせて頂いて。
 改めて思う事は、今日の御理解の有り難かった事を、こうやって集約する。皆この頂きどころを書いて来ております。それぞれに良い所を頂いております。けれども一つの文章にして、私は何時も思う事は、合楽の教えというものは絶対におかげに繋がる頂き方をしなければ駄目です。唯わかった、あぁ有り難かっただけ、のご理解では駄目です。おかげに継ながる頂き方です。そこん所を、こういう風に表現したら良いなあ、書いたら良いなあと言う事になって参りました、いうならば毎日もう一遍頂き直して。
 今日の御理解のサワリ集と言った様なものを、これから造って行こうじゃないかと言うことになったのです。だから皆さんでもです、こうやって一々書いておられるのを、もう一遍おかげの頂けれる頂き方に要約するというか。一つの文章にされてです、そしてそれを本気で実行すると言う事は、私と共に富士山を目指すと言う事になるのです。それにはね。私の言う事が、あぁほんにそうと言う様に、それこそ惚れて惚れ抜かれる様なものが生まれなければ駄目なのです。
 お互いがでなかったら先生がああ言う事を言ったからというて腹かく。先生がああ言う事を言うたからもう参らん、と言った様な事になりかねません。そこにどうでも惚れ合が要るのです。それこそアバタもえくぼに見えるようにならねば駄目です。そして皆さんがです、所謂富士山頂を目指して、言うならば昨日の御理解から頂きますとですね、結局は総生神を目指す事だと思うです。
これは金光教団で皆言われとります。金光教の信心は総取次者とか、総生神を目指すと言う事なんです。富士山頂を目指すと言う事なんです。だからオカルトがです皆さんに聞いて頂いておるのですから間違いないです。だからその如何に間違いない事であっても、神様が如何に言われたからと言ってです、それを右左にした分には、お徳にもならねばおかげにもならんと言う事を肝に銘じて。
 例えば今日八十九節からです。ならこの様にいと簡単にもうそれこそアッというまに覚えられる、これ位の事は。この方の道は傘一本で開く事が出来る。と言う様な御教えを、金光教の信心はそうですよと。いうとるだけではいかんです。それこそオカルトによらなければその真意がわからんのです。傘一本という中にはそういう深い訳がある、成る程傘一本を持っときゃ安心だ、平生心が頂かれるんだ。
 ならその傘を頂く為にはと言う事は、こういう御教えをです。日々お互いが本当に不思議で、不思議でならんですけど、私自身神様が不思議な表現をもってどんなにしてでも分る様に、噛んで含める様に、教えて下さるのですから、それを愈々行じ自分のものにして行くおかげを頂かして貰はねばなりません。願いを高度の所に置きなさい、そこにはです吾合楽示現の使者たらん、という位な高度な所に信心目標というか、を置いてその自覚に立って、信心を愈々進めて行かねばならんと思います。
   どうぞ。
 昨日ねお話が終わってからでした、福岡の戎浦さんが、長々しいお取り次ぎの様なことをいうとられたんですよ。私聞きよったんですそしたらね、私共が昨日夕食さして貰う。私は今自分の部屋で頂くのです。久富先生と私と家内と三人で頂くんです。それでご承知でもありましょうが、私の部屋の下の方が障子戸になってますよね、庭の方の面の方が、私はテレビを寝ながらこう見よる、誰かお爺ちゃま、お爺ちゃまと誰か言いよるですもん。思いがけないこっち障子の方から。
 あら誰かじいちゃまといいよったね、と言うて開けて見たら恵城が来とるとです。あの二番目の孫が。それでこう私は明けましたら、あそこは障子があって向こうに竹のこうやって何といいますか、竹の格子がしてあるでしょう。ですからそこから手を入れてから、そこから上げてくれと言う訳なんですよ。ここからは開けられんばい、ここからあがらでけん、こうまわっておいでといった訳ですけれども。
 その戎浦さんのお届け聞きながら、そのことを頂くのですよ。だから此処じゃあんたの御理解を頂きよったらねあの成程、手と手は継ないどるのですよ、その竹の窓から手を出しとるけん顔でもこうやって引っ付くごとある訳ですけど、なら中に入れる訳にはいかんでしょうが。こう回っておいでと云う訳です。だから回らにゃ上にあげられんとです。だからお互いお取り次ぎ頂くでもです。そのような本当に先生と手を繋ぎ会うとるようだが、おかげ頂ききっとらんとかね。
 回る所回っとらん、踏む所踏んどらんとですよ。だから恐らく今日改めてここでお取次ぎがあるでしょうばい。だからそげな事を頂いたですよと申しました事ですけど。そんな事でも矢張り私が、オカルトのおかげを頂いとるからそれが出来るんです。それでも矢張り信心の道を行じさせて貰うと言う事はね。もう自分はこの位ぢゃいけないでしょう。やっぱり通る所を通らなければ、ここにこうやって見えておってもなら、抱え上げる事すら出来んのですから。そこん所もよく考慮しなければいけません。ただいと簡単にと云うても通る所だけは通って来なければいけんと言う事が分ります。
   どうぞ。